代 | 管長名 | |
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初代 | 長山 虎壑 (ながやま こがく) | 詳しくみる |
第2代 | 間宮 英宗 (まみや えいじゅう) | 詳しくみる |
第3代 | 足利 紫山(あしかが しざん) | 詳しくみる |
第4代 | 奥 大節(おく だいせつ) | 詳しくみる |
第5代 | 河野 宗寛(こうの そうかん) | 詳しくみる |
第6代 | 藤森 弘禅(ふじもり こうぜん) | 詳しくみる |
第7代 | 荒金 天倫(あらがね てんりん) | 詳しくみる |
第8代 | 大井 際断(おおい さいだん) | 詳しくみる |
第9代 | 安永 祖堂(やすなが そどう) | 詳しくみる |
弘化2年(1845)~大正7年3月 9日(1918) 74才
諱は宗覚、室号は三笑軒。愛知県名古屋市に生まれる。
安政3年(1856)、 三河・淵龍寺の道林に投じて倉見氏から出家。
文久元年(1861)、美濃永保寺の雪航孜純老師に侍したのち、蓬洲禅苗、 海州楚棟、巨梁梵慧、潭海玄昌に歴参し、潭海老師の印記を受く。
また、巨梁老師に嗣いで、岐阜県長養寺に住す。
明治29年(1896)、京都南禅寺の副住職となり、更に方廣寺独住三世の席を董す。
明治37年(1904)、方廣寺派の独立に伴い 初代管長となる。
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明治4年10月1日(1871)~ 昭和20年3月21日(1945) 75才
諱は義雄、室号は青龍窟。愛知県中島郡中野村に生まれる。明治12年(1879)、 三島・龍沢寺の天眼老師に就いて出家。岐阜霊松院の聨芳学校卒業後、京都天龍僧堂の橋本我山老師に参じ、明治33年、 師の示寂により天龍寺を退き、静岡県御殿場の建長寺派青龍寺に住す。以後、鎌倉円覚僧堂の釈宗演老師に参じ、師の印可を受く。 大正3年(1914)、京都嵯峨の臨川寺に転住、大正7年、奥山方廣寺派管長に就任。山口玄洞氏の寄進によって設立された 京都市寺町の仏教会館と方廣寺を拠点として日本国内及び台湾・朝鮮・中国東北・南洋を布教飛錫。昭和2年(1927)、 方廣寺を辞し、京都に栖賢寺を再興して退任後も布教に従事し、昭和20年3月21日、巡教途上の上海で病を得て遷化。 著書に「碧巌録講話」、「臨済録夜話」、「禅道俗話」等多数ある。
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安政6年4月1日(1859)~昭和34年12月30日(1959) 101才
諱は恵温、室号は無為室、後に閒雲室。俗姓は野々垣、のち足利と改名。 愛知県一宮市に生まれる。慶応二年(1866)清水市興津・清見寺の蓉嶺和尚に就いて出家。明治8年(1875)、東京湯島の 麟祥院臨済宗学黌・今北洪川老師に就いて内外典を、安井息軒師の三計塾にて漢籍を学ぶ。明治11年、岐阜伊深正眼僧堂に掛錫、 泰龍文彙老師に就いて修禅。明治14年京都相国寺僧堂に転錫、萩野独園老師に参じてその法を嗣ぐ。明治27年10月 大分市萬壽寺住職となり僧堂開単、この時、足利に改姓している。大正15年(1926)、萬壽寺を退住、清水の鉄舟寺に隠棲する。 昭和2年(1927)、方廣寺派管長就任、開山堂を再建し、禅堂再興。昭和16年臨済宗十三派合同の初代臨済宗管長に就任。 昭和21年、方廣寺派管長を辞し萬壽寺に帰山。昭和27年方廣寺派管長に再任、山門を再建。明治29年大分育児院を創立、 昭和29年奥山老人ホームを建設するなど社会事業にも尽力した。遺著に「臨済録提唱」、「毒語心経提唱」「紫山語録」等がある。
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明治22年10月19日(1889)~昭和45年1月24日 (1970) 82才
諱は鐵操、室号は雲閑窟、後に雲関窟。島根県簸川郡久多美村 (現在の平田市東福町)に生まれる。明治29年(1896)鳥取県米子市・要玄寺の鰲峰和尚に就いて出家。明治39年、 京都天竜僧堂に掛錫、高木臺獄老師に就き修禅、在錫十五年に及ぶ。後に京都相国僧堂の橋本独山老師に参じ在錫四年。 嗣法師は臺獄老師。大正15年(1926)、大分市萬壽寺住職同僧堂師家に就任。山門の修復、高崎山萬壽寺別院をを建立すると共に、わかば保育園を開設。昭和20年より昭和24年3月まで花園大学学長を努める。昭和21年(1946)、方廣寺派管長就任同僧堂師家。 昭和26年、方廣寺派管長を辞し萬壽寺に帰山昭和35年、方廣寺派管長に再任。禅的訓練による人材育成のため研修道場建設に尽力せらる。 語録に「雲関語録」がある。
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明治34年1月(1901)~昭和 45年2月27日(1970) 69才
諱は宗寛、室号は大渕窟。大分県大分市に生まれる。明治42年(1909)、 大分市萬壽寺足利紫山老師に就いて出家。大正6年(1917)、愛知県一宮市妙興禅林に学び、大正11年、岐阜井深正眼僧堂に掛錫、 川島昭隠老師に参ず。大正14年、高野山真別処圓通律寺で密教律蔵を修める。昭和3年(1928)、京都相国僧堂の山崎大耕老師に参じてその法を嗣ぐ。 昭和14年4月、愛媛県北宇和郡大乗寺住職に就任、禅堂開単。昭和16年、旧満州国新京(現・長春)の妙心寺別院に布教総監として赴任。 戦後の混乱期には別院禅堂を戦災孤児に開放、昭和21年、300名の孤児と共に引き揚げ、大乗寺へ帰山。以後、その体験から社会福祉に尽力。 昭和25年妙興寺住職就任同僧堂師家。昭和26年、方廣寺派管長に就任、翌年1月まで兼任。著書に「大淵録」、「一禅僧の自伝」、「妙興寺史」等がある。
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大正14年6月28日(1925)~昭和59年12月20日(1984) 59才
諱は恕山、室号は波羅窟。静岡県浜松市上浅田町に生まれる。 昭和3年(1928)、引佐郡引佐町(現在、浜松市引佐町)井伊谷龍潭寺住職琳山和尚に就き得度。昭和21年、三島龍沢僧堂に掛塔、山本玄峰老師、 中川宗淵老師に参じ、宗淵老師の法を嗣ぐ。昭和34年方廣寺派慈光院住職を経て、昭和46年、方廣僧堂師家に就任、 昭和48年、方廣寺派管長に就任。大慈閣(檀信徒会館)並びに高町半僧坊別院の建立に尽力する傍ら、慈光禅会など広く大衆の教化に奔走。 昭和58年、退任。著書に「白隠禅師坐禅和讃」、「むもんかん」等がある。
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大正9年3月4日(1920) ~ 平成2年1月7日(1990) 69才
諱は義堂、室号は碧雲室。大分県大分市に生まれる。昭和10年(1935)、 大分市萬壽寺奥大節老師に就き得度。昭和12年、京都天竜僧堂に掛錫。関精拙老師、関牧翁老師に参禅。第二次大戦中、 南方軍報道部員として従軍し、戦後、夕刊フクニチを経て、京都新聞に入社。編集局社会部長、企画部長、編集委員を歴任。 京都新聞退社後、執筆行に従事。福井放送取締役ほか数社の顧問を兼任。昭和45年恩師・奥大節老師の遷化にあい、 天龍寺管長・関牧翁老師に再参し、その法を嗣ぐ。昭和55年(1980)、方廣寺塔頭三生院住職。昭和59年、方廣寺派管長に就任。 圓明閣建設に身命を注ぐ。晩年の日常底は追悼ルポ「禅僧ガンと生きる」に詳しい。著書に「現代を生きる」、「日曜辻説法」 (カセットテープ)、「死を見つめる科学」(共著)がある。
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大正4年2月26日(1915)~平成30年2月27日(2018年)104歳
諱は令碩、室号は大隠窟。大正4年(1915)2月26日、兵庫県西宮市に生まれる。 大正10年、西宮茂松寺の大井洞雲和尚について得度。昭和15年(1940)、京都大学文学部哲学科卒業後、京都市東福僧堂に掛塔。 戦争のため暫暇し、戦災で荒廃した茂松寺の復興に尽力、昭和23年茂松寺住職拝命。この頃より東福僧堂に通参、家永一道老師に参じる。 老師の犬山瑞泉寺閑栖に従って瑞泉僧堂に転錫。一道老師より嗣法する。法務の傍ら京都市の花園大学教授として教鞭を取り、禅哲学を講ずる。 昭和35年4月、大分市萬壽寺住職同僧堂師家に就任。昭和50年3月、妙心寺塔頭東海庵住職。永源寺派前管長関雄峰老師との法縁によりドイツ各地を坐禅指導に巡錫。 平成2年10月、方廣寺派管長、同僧堂師家。国内はもとよりドイツ他ヨーロッパ諸国等から参ずる雲水、居士大姉の接化に尽力されている。
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昭和31(1956)年3月30日、愛媛県新居浜市に生まれる。昭和46(1971)年4月3日、愛媛県立新居浜東高等学校入学、妙心寺派清浄寺住職安永頴宗に就いて得度。昭和49(1974)年4月5日、花園大学入学。昭和53(1978)年3月15日に同卒業後、天龍寺専門道場に入門、撥雲軒平田精耕老師の下で修禅。平成5(1993)年2月1日、天龍寺国際禅堂師家職及び天龍寺派松雲寺住職拝命。平成13(2001)年4月1日、花園大学文学部仏教学科教授就任。平成30(2018)年4月1日、方広寺派管長に就任。
天龍寺国際禅堂に於いて外国人対象の坐禅指導、さらに花園大学において教鞭を執るとともに慶応大学・立教大学・同志社大学・NHKカルチャーセンター京都教室などに出講。
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