山号は深奥山(じんのうざん)と称し、静岡県浜松市浜名区引佐町奥山に所在します。
禅宗のうち、臨済宗方広寺派を構成し、その大本山として厚い信仰を集めています。
また、かつては癩(らい)患者のための病院施設を開き地域の福祉に貢献しました。
さらに、明治14年の山林大火の際に類焼に遭うも開山円明大師の御墓所と七尊菩薩堂、開山様本像、そして半僧坊真殿が焼け残ったことから、方広寺の鎮守の神である半僧坊の信仰も全国に広がっています。
1371年、無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)は、当地を治めていた豪族奥山六郎次郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ)の招きにより、奥山家の治めていた所領のうちから60町歩の土地と建物を寄進され、ここに方広寺を開かれました。
無文元選禅師を御開山と称し、奥山六郎次郎朝藤を開基と称します。
元選禅師は、この地が、かつて訪れたことがある中国の天台山方広寺の風景に似ていることから、この寺を方広寺と名付けられました。
幾度となく火災にあって伽藍は消失しましたが、明治14年(1881)の大火の後、復興を遂げ、現在、大本堂、半僧坊真殿、開山堂、三重の塔など多数の建物を擁しています。
境内各所には五百羅漢の石像が安置されております。これは拙巌(せつがん)和尚が、大蔵経(だいぞうきょう)を読んでいるとき、五百人の羅漢さまが仏法を護り、伝えるという記述を読み、御開山無文元選禅師が、かつて中国の天台山方広寺を訪れたとき、石橋(しゃっきょう)にお茶を献じられたとき羅漢さまが姿を現されたという故事にちなみ、当山に五百羅漢の石像を安置することを発願(ほつがん)されました。多数の方に寄進を願い、明和(めいわ)7年(1770)、500体の羅漢さまが安置されました。
また現在、平成の五百羅漢を皆様に御寄進いただきながら、安置を進めております。
元亨(げんこう)3年(1323)2月15日、後醍醐天皇の皇子として、京都において誕生されました。母は昭慶門院と称されます。
7歳の時、乳母が亡くなった事をことのほか悲しまれたと伝えられております。父後醍醐天皇が崩御(ほうぎょ、亡くなること)された翌年、暦応(りゃくおう)3年(1340)、18歳の時、京都の建仁寺において出家されました。
貞和(ていわ)元年(1345)、元王朝末期の中国に渡られ、大覚妙智寺に古梅正友(こばいしょうゆう)禅師を訪ね、ここで修行を積み重ね、大悟して、正友禅師の法を継がれました。
観応(かんおう)元年(1350)秋、日本に帰国され、応安(おうあん)4年(1371)、奥山六郎次郎朝藤の招きにより、方広寺を開かれました。
禅師のもとには、その名を聞いて、多くの修行僧が集まり、日夜修行に励んだと伝えられております。
明徳(めいとく)元年(1390)、閏(うるう)3月22日、方広寺で亡くなられました。68歳でした。
嗣法(しほう)の弟子に 東隠院開基の悦翁建誾(えつおうけんぎん)、臥雲院開基の空谷建幢(くうこくけんどう)、三生院開基の在徳建頴(ざいとくけんえい)、蔵龍院開基の仲翁建澄(ちゅうおうけんちょう)、虎洞院開基の休卜守仲(きゅうぼくしゅちゅう)の5人がおられます。
方広寺の鎮守さま。伝えによると、無文元選禅師が中国より船に乗船して帰国の折、東シナ海において台風に遭遇されました。風は帆柱を折れよとばかりに吹き荒れ、雨は滝のごとく落ち、波は逆巻いて禅師のお乗りになっている船をいまにも飲み込もうとする勢いでありました。大きく揺れる船のなかで、禅師は一心に観音経をおよみになっておられました。そこに法衣を着て袈裟をまとった、鼻の高い一人の異人が現れて、「わたしは禅師が正法を伝え弘められるために、無事に故国に送り申します」と叫び、船頭を指揮し、水夫を励まして無事に嵐の海を渡って博多の港に導いたのでした。そして、ここでお姿を消されたといわれます。
禅師がこの方広寺を開かれたとき、再びその一異人が姿を現し、「禅師の弟子にしていただきたい」と願い出ました。弟子になることを許され、禅師の身の回りにお仕えしながら修行に励んでおりましたが、禅師が亡くなられた後、「わたしはこの山を護り、このお寺を護り、世の人々の苦しみや災難を除きましょう」といって姿を消したのでした。以来、この方広寺を護る鎮守さまとして祀られ、世の人々の苦しみや災難を除く権現さまとして、ご信仰をあつめております。
毎年10月に御大祭がおこなわれております。
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